昔から、「偽善」、もしくは、「偽善者」という言葉に、違和感を感じていました。
インターネットに公開されている辞典で「偽善」を調べてみると、次のような説明が見つかりました。
うわべをいかにも善人らしく見せかけること。また、そういう行為。
「偽善に満ちた社会」⇔偽悪。
ぎぜんしゃ【偽善者】 偽善を行う人。
今回の投稿では、この言葉について詳しく考えてみたいと思います。
※ただし、「マスコミや慈善団体が行うチャリティ・イベントなどが偽善かどうか?」といったことは、少し毛色が違うと感じますので、今回の考察からは除外します。
まず、 「うわべをいかにも善人らしく見せかける」とは、どのようなことを指すのか考えてみました。
(1)「自分に利益をもたらす可能性が高い」ということが動機となって、世間的に善行とされている行為を行う
(2)社会的な常識や他人の視線を意識して、本心では「やりたくない」と思っていることを行う
人は、善行の裏には「純粋な良心がある」とか「見返りを求めていない」ということを期待しているところがあり、(1)(2)のような場合は、この期待を裏切ってしまうことになり、「うわべだけの行動」と判断され、「偽善」や「偽善者」と呼ばれてしまうのです。
「偽善」「偽善者」は、良い意味で使われる言葉ではありません。
ですから、 「偽善」「偽善者」ということに意識が向かうと、ほとんどの人は、そのようには呼ばれたくないと思うでしょう。
「偽善」「偽善者」と呼ばれないためには、何か良いことをしようとしたときは、「下心のない行動」、「純粋な良心を背景とした行動」、「自然な行動」でなければならず、行動の裏にある自分の本心を疑わなければならなくなってしまいます。
「偽善」、「偽善者」に該当するかどうかの判断は、「何かをされた人」、「その行動の場に居合わせた人」、「その行動のことを聞いた無関係な第三者」などが行います。
つまり、本人以外が判断するのです。
はたして、「その人に下心があるかどうか?」といった他人の心の中を、他人が知ることができるのでしょうか?
ここで、他の人が「偽善」「偽善者」について、どのように考えているのかを、ちょっとネットで調べてみました。
論点は「自己の利益を目的とした行動かどうか?」というところのようです。
そして、偽善 – アンサイクロペディア に結論として書かれていた説明に納得しました。
真の結論
自分の行動の善性についてあれこれ悩むのは時間の無駄
ではいかにすべきか
まともな人間なら自分の良いと思ったことをやってやればいい
これで、一つの結論は得られたのですが、 違和感は、まだ解消していません。
もう少し考えてみます。
実は、「偽善」「偽善者」といった言葉は、日常生活では普通の人は使うことのない言葉だと思っています。
テレビドラマや映画などでは、裏に自己利益という目的がある「見せかけの善行」と感じたとき、その善行を「偽善」、そのような善行を行う傾向がある人を「偽善者」と言って非難するような使い方をしているようです。
他人の本心を透視することはできませんから、自己利益のために行動をしているかどうかは、他人には分かりません。
「自己利益のために行動をしている」と感じるのは、客観性に乏しく、そのような言葉を使う側の主観です。
ここで、「偽善」「偽善者」という言葉を使う人の心理を想像してみます。
恐らく次のようなものではないでしょうか・・・。
- 対象者を非難したい気持ちがある
- 対象者を非難するために、対象者の行為を否定する
- 更に、否定される行為をする人というレッテルを貼る
- 「対象者を非難したい」という悪意を偽善・偽善者という言葉に込めて、そこにいる対象者、或いは、不在の対象者に浴びせかける
まとめると、「偽善」「偽善者」という言葉を発する人には「悪意がある」といえるのではないでしょうか。
また、「偽善」「偽善者」といって誰かを罵っているときに使う言葉は、きっと、「相手が傷つきそうな言葉」なら、どんな言葉でも良いのではないでしょうか。
「偽善」「偽善者」という言葉には、それ以上の意味はないと思います。
ただ、「偽善」「偽善者」という言葉を用いると、相手を強烈に傷つけるだけでなく、「根拠がなくても、自分は正当であると印象づけられる」というメリットがあります。
他人に「偽善」「偽善者」という言葉を使うには、その言葉を使う人自身が「真の善人」である必要があります。
しかし、感覚的に分かると思いますが、自分や他人が善人かどうか判定することは、誰にもできません。
ですから、誰も、他人を偽善だと否定できるはずがないのです。
偽善だと他人を批判する人は、「自分は、善の側にいる」という錯覚に陥っています。
しかし、この場合の「善」は、「真の善」ではなく、その人にとっての「善」です。
「偽善」と言って他人を批判する様子は、第三者には「善」ではなく「悪」と写るでしょう。
ここまで書いて、ようやく、私が感じていた違和感の理由が分かってきました。
私の違和感の理由は、
- 誰かを「偽善」だと責めることこそが「真の偽善」ではないのか
ということで、「偽善と呼ぶべき対象が、あべこべではないか!?」という感覚だったようです。
■ 善行をする人
- 下心の有無は別にすると、自分の「善」「正義」の感覚に基づいて、誰かのためになることを願っている
- 不本意に他人を傷つけてしまうことはあるかもしれないが、本質的には、誰かを傷つける意図(悪意)はない
他人の心を傷つけたり、他人の財産を奪い取ったりしないのであれば、意図して「善行」をすることに、何の問題もないと思います。
また、人の行動には、ちょっとした下心があるのは普通のことだと思います。
これに対して、他人の行動を「偽善」と言ったり、他人を「偽善者」呼ばわりする人はどうでしょう・・・。
■ 他人の善行に「偽善」という言葉を使う人
- 自分や社会の「善」「正義」を後ろ盾に、自分自身の正当性と相手の「悪」「不義」を主張する
- 対象者を傷つけることを意図している
ここで、私なりに「偽善」を定義し直してみます。
【偽善の定義】
偽善とは、社会や自分の「正義」「善」を盾にして、他人の行動や人格を否定すること
突然ですが、テレビのワイドショーや報道番組のことを思い出してください。
彼らがやっていることは、再定義した「偽善」に該当する雰囲気があると思いませんか?
何か事件や事故が起こると、彼らは、もっともらしい理屈を並べ挙げて、責めやすい人たちを責め立てます。
人格者でもない彼らは、何を根拠にして、他者を責めるのでしょう。
しかも、公共の電波を使って・・・。
公共の場で責められた人は、精神的に追い詰められてしまい、最悪の場合、自殺するしかない心境になることもあると思います。
そんなことをする権利は誰にもないはずです。
しかし、公共の場で発言する権利を与えられると、自分が社会の善や正義の代弁者であるかのような暗示に掛かってしまうのでしょう。
新しい定義に従えば、ワイドショーや報道番組の出演者たちが行う批判も偽善だと言えます。
マスメディアが流す情報を通して、彼らの偽善に繰り返し触れていると、私たちは「誰かを傷つけるかもしれない」という想像力が働かなくなって、彼らと同じように、正義や善の代弁者として振る舞う傾向を強めてしまうのではないかと心配です。
少し前に、マスメディアに関わる世界が、そのような傾向に陥っている可能性を示す出来事がありました。
「明日、ママがいない」というドラマに関わる騒動です。
正確ではないかもしれませんが、概要を説明します。
- 登場人物の一人に「ポスト」というあだ名がつけられていた。
- 「赤ちゃんポスト」に捨てられていたから、そのようなあだ名になったという設定。
- 「ポスト」というあだ名が施設の子供たちを傷つけると問題にする人(組織?)が現れた。
- マスメディアが、それを報道した。
- スポンサーは、「登場人物のあだ名を変更しなければ提供を降りる」とテレビ局に詰め寄った。
- テレビ局は、要求に従わなかった。
- スポンサーは、提供をやめた。
- テレビ局は、提供なしで放送を続けた。
実際に、多くの施設で暮らす子供たちが傷つき、その子供たち、もしくは、子供たちに最も身近な擁護者たちが怒ったのなら、あだ名の表現は変えるべきだと思います。
でも、「傷つけるに違いない」という第三者の正義によって、ドラマに変更を求めるのは、ちょっと違うのではないでしょうか。
スポンサーたちの「正義を盾にして自分たちに従わせようとした行動」は、新しい定義によれば偽善だと言えます。
第6話の後半( 39分10秒頃から46分50秒頃)で、三上博史が子供たちに語りかけるシーンがあります。
話される内容は「子供たちがこの社会で生きていく上で大切なこと」といえるのですが、まるで、提供を降りたスポンサーたちに、語りかけているようにも聞こえました。
提供を降りたスポンサーたちは、どのような思いで彼の言葉を聞いたのでしょうか・・・。
いい話だと思うので、一度聞いて欲しいと思います。
明日、ママがいない 第6話
社会に、偽善(新定義)が蔓延してしまうと、
- 偽善者から責められることを恐れて、自分たちの偽善性を強める
- 偽善性が強まれば、社会的正義によって他人を責める傾向が強まる
- 社会的正義によって他人を責める傾向が強い人の割合が増えると、注意して行動しなければ責められる可能性も高まる
- その結果、ますます、自分たちの偽善性を強めなければならなくなる
という悪循環が社会に生じて、時の流れと共に生き難くなり、最後は、建前以外は話せなくなるのではないかと思えます。
【参考】
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