前回の「食べ物を粗末にしない」に引き続き、今回は、「お年寄りを大切にする」という言葉について思うことを書いてみようと思います。

私が、若い頃に、「お年寄りを大切にする」という言葉に感じていたニュアンスは、
- 一生懸命に働いて、社会に貢献してくれた人を労る
といったことでした。
また、「子供叱るな来た道だ、年寄り笑うな行く道だ」という言葉を使って、
- 「誰でも年老いるのだから、自分が年をとったときにされたくないことをしてはいけない」
と教えられてきたので、そういったニュアンスも含まれています。
そんな私も、今では、それなりの年月を生きてきました。
そして、最近は、「お年寄りを大切にする」という言葉に、ちょっと違う意味を感じるようになりました。
ちょっと、長くなりそうですが、最後までお付き合い下さいm(_ _)m
人間にとって大切なこと
誰でも、一度は 「生きる意味とは何か?」と考えたことがあると思います。
「答えのない問い」のようなものですから、それに対する答えは、人それぞれだと思います。
この問いに対して、最近の私が思っていることは、次の2つです。
(1)「既に手に入れている大切なこと」に気づき、それを心から大切に思うこと
(2)「存在さえ知らなかった大切なこと」に気づき、それを心から大切に思うこと
この2つは、とても難しいことです。
(1)は、例えば、「健康の大切さは、失って初めて気づく」という言葉から、イメージして頂けると思います。
空気のように、それがあることが当たり前になってしまうと、その大切さに思いが至らなくなり、それがあることさえ忘れてしまいます。
それがあることが当たり前の状態では、「空気があるってありがたいことだね」と、口先では言えても、心からそう思うことは、とても難しく、普通はできません。
(2)は、例えば、「電話」というものや概念が存在しない社会では、電話を思い浮かべることはありません。
ですから、知らないものを、心から大切だと思うこともありません。
しかし、そんな難しいことでも、それぞれの人が、自分の人生を生きていく中で、それぞれの人が気づく「大切なこと」があるものです。
私にも、気づけたことがあります。
「家庭」に関連したことです。
私にとって「家庭」というものに対するもともとのイメージは、
- 家がある
- 父親がいる
- 母親がいる
といった形式的なものでした。
今から、子供の頃を振り返ると、ここに付け加えるとしたら
- 緊張
- 孤独
- 我慢
といった感覚も付け加わってしまうようなものです。
ですから、私が「家庭」に期待することは、衣食住以外には、何もありませんでした。
ところが、自分の家庭を持ち、家庭は、支え合い、労り合い、緊張から解放してくれる癒やしの場であると気づくことができました。
そして、とても大切なものだと思うようになりました。
これは、これまでそれなりの年月を生きてきたから、私にとっての「家庭」というイメージの中に無かったもの(安心・安らぎ)に気づき、それが自分にとって大切なことだと気づけた例(前述の(2))だと思います。
お年寄りが気づいた大切なことが、社会に蓄積されない
全ての人は、それぞれの人生で、「それまで知らなかった大切なこと」や「既に手に入れていた大切なこと」に気づいていくことと思います。
お年寄りは、より長く人生を生きています。
ですから、数十年しか生きていない人に比べれば、長く生きた分、いろいろな大切なものに気づいているでしょう。
現在の社会(「メディア」といった方が正しいのかもしれませんが・・・)は、経済的・社会的な成功や地位などは評価します。
地位や権力、経済的成功を手に入れた一部の人たちは、自分の考え方をインタビューや出版などを通して、世の中に発信する機会を得やすいところがあります。
(ただ、この場合は、話題は、主に経済や経営などの話題が中心になり、「人生において大切なもの」を表に引き出して、社会に浸透させる働きは弱いと感じています。)
ところが、それ以外の 大多数のお年寄りには、考えなどを発信する機会が与えられることはほとんどありません。
ですから、せっかく気づいた「人生で大切なこと」を表に出して、社会に蓄積される可能性は低く、やがて、この世から消えていくことになります。
お年寄りを大切にするとは・・・
「お年寄りを大切にする」という言葉は、社会に、大切なことを蓄積させるために伝統的な知恵なのではないかと感じています。
「お年寄りを大切にする」という言葉は曖昧なので、お年寄りを大切にするために、実際にどうすれば良いのかが分かりにくいところがあります。
ここで、「社会に大切なものを蓄積させる」ことを前提すると、次のようなことが浮かんできます。
- 日常生活のどこにでも、お年寄りがいる状態を作る
- お年寄りとマメにふれあう
(日常的に、お年寄りと何気ない会話をする)
人生の中で気づいた大切なことは、普段の生活の何気ない会話の中で、ポロッ、ポロッと語られるものだと思います。
また、日常の何気ない会話の中で、ポロッ、ポロッと語られるから、聞く人の心にも響き、染みこんでいくのだと思います。
そして、いろいろな人たちの「人生において大切なもの」が、社会に蓄積していきます。

群知能と決断
少し話がそれます。
群知能という考え方では、「生物に共通する決断のプロセスがある」といわれているそうです。
群知能というのは、
- 知能があるとは思えない生物でも、集まって群れを作ったとき、その全体が知能としての機能すること
をいうのだそうです。
決断のプロセスとは、
- 知能があるとは思えない集団(ミツバチの群れ、鳥の群れ、魚の群れなど・・・)の中で、
- 複数の意思あるとき、「劣る意思は否定し、優れた意思は広める」という動きが起き、
- ある意思を持つ個体が、一定の割合(或いは、数)を超えると、群れ全体が、その意思に従って行動する(つまり、集団全体が、そのように行動しようと決断する)。
というものです。
集団の決断は、「より多くの個体に広まった情報によって起こる」といえます。
※この決断のプロセスについては、次のページで、もう少し詳しく説明していますので、よろしければ、ご参照下さい
–>「決断のしくみ」と『進化の決断』に関する妄想(ブログ 科学的なことを想う)
人間社会の決断のプロセス
話を戻します。
この決断のプロセスを、人間社会に当てはめてみます。
今は、社会的な決断は、主にメディアが流す情報のみに基づいて行われているところがあります。
- 経済的な価値観
- 社会的に情報量の多い価値観
- 社会的に影響力のある人の価値観
また、「インターネットを通して、主張せずにはいられない人」が発信した情報も、その決断に影響を及ぼすところもあります。
ところが、「自分の人生において大切なもの」を見つけ、穏やかに過ごしているお年寄りの価値観や気持ちに触れる機会があまりありません。
当然、「自分の人生において大切なもの」に関する情報は、社会には蓄積されていきません。
その結果、社会的な決断のプロセスは「人生にとって大切なこと」以外の情報をもとに行われがちになります。
これでは、経済を前提にした決断は出来ても、それぞれの人生を大切にする決断が出来るとは思えません。
今は、そんな社会なのです。
社会は、蓄積される情報 によって左右されます。
決断のプロセスにおいて、重要なのは、その意思や情報に賛同している個体数(割合)です。
ですから、リーダーが表舞台に立って「人生にとって大切なこと」を大きな声で主張しなくても、「人生にとって大切なこと」が人々の心に浸透していけば、人間社会の決断に、「人生にとって大切なこと」による決断も加わるようになると考えることができます。
逆に、人間社会(群れ)に備わっている群知能による「決断のプロセス」に、「人生にとって大切なこと」による決断も加わるようにするためには、「人生にとって大切なこと」が社会に蓄積される仕組みが必要といえます。
今は、その部分が欠落した、歪な社会といえるのかもしれません・・・。
結論
「お年寄りを大切にする社会」が実現できれば、経済的価値観や社会権威的価値観だけではなく、「人生において大切なもの」という観点での決断がされるようになり、経済を回すことだけに重きを置いている今の社会は、きっと、「みんなの人生を大切にする社会」へと、自然に導かれていくことになると思います。
余談
ちなみに、「子供叱るな来た道だ、年寄り笑うな行く道だ」という言葉の全文は次のようなものだそうです。
子供叱るな来た道だもの
年寄り笑うな行く道だもの
来た道行く道二人旅
これから通る今日の道
通り直しのできぬ道
※ 一日一訓(16日 子供叱るな来た道じゃ年寄笑うな行く道じゃ)|歴史は人生の教師 より引用させて頂きました。
関連して紹介されていた「昔のインドでの話」は興味深かったです。
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