第10回 愛して欲しい、認めて欲しい・・・・
(2005/09/08)
例えば、小さい子供が、外で辛い事があって、「お母さんに抱っこして安心させて欲しい」と感じ、それを求めた時に、お母さんが「我慢しなさい!」と抱っこしてくれなかったとします。
子供は、「抱っこ」は我慢するかもしれませんが、「安心させて欲しい」という気持ちは収まりません。
ですから、自分の気持ちを安心させる為の違う要求(例えば、「じゃぁ~、お話聴いてくれる?」など)を、いろいろ考えるだろうと思います。
(このとき、自分の願いの一つを無意識に諦めたということを意味すると思います。)
それでも、お母さんが応えてくれず、安心させてもらえないことが続いたら、最後は、自分の気持ちを満足させる為に、お母さんに何を望めば良いのかが、分からなくなってしまうだろうと思います。
そして、満たされていない「安心させて欲しい」という『漠然とした感覚』だけが残ってしまうのです。
「愛して欲しい」、「認めて欲しい」という感覚も、この『漠然とした感覚』に含まれると考えています。
そして、その感覚には、きっと、応えてもらえずに諦めた具体的な願いが隠されているだろうと思います。
『漠然とした感覚』は、そう感じるに至った人間関係の中では、とても役に立つ感覚かもしれません。
その理由は、その感覚があることで、願っても応えてくれない相手に、再び、同じようなことを願ってしまい、辛い思いを繰り返さなくても済むからです。
また、何も与えてくれない相手に対して、何かを与えてくれそうな予感を感じ、「安心に似た感覚」を感じていられるということもあるかもしれません。
ところが、そう感じる元となった人間関係を離れると、その感覚はお互いの意思の疎通を阻害してしまうことにつながるのです。
例えば、料理が下手なお母さんに、色々な料理を要求しても、おいしい料理にありつけなかったとき、「あぁ~、何かおいしいもの食べたいなぁ~」と思うかもしれません。
そして、それを、お母さんに言った時、お母さんが作ってくれる料理の中で一番マシだと感じるおにぎりを作ってくれたとします。
それ以上のものが期待できないのだから、それを「おいしいもの」とするしかありません。
また、「おいしいもの」という言葉に、当初含まれていたであろう期待感は、次第に薄れてしまうかもしれません。
でも、家庭以外の世界では、例えば、レストランで「何かおいしいもの」と注文しても、おにぎりは出てきませんし、それ以前に、何も食べる事は出来ません。
そんな時、レストランのメニューを改めて眺めてみると、過去に諦めた料理の数々が並んでいる事に気が付くかもしれません。
また、そのレストランのメニューに無くても、別のレストランにあることが期待することが出来るようになるかもしれません。
・何かを諦めて、とりあえず「おいしいもの」としてしまっている料理は、ありませんか?
・あなたが本当に食べたいと願っている料理は何ですか?
・あなたが通う『愛』を扱うレストランのメニューに、どんな料理が並んでいますか?
・違うレストランのメニューには、どんな料理が並んでいるでしょう?
あなたが通いたいレストラン探しは、あの時に食べたかった料理を、もう一度、思い出すところから始まるのかもしれません。
そして、「親子丼を食べたい」と言ったとき、あなたの食べたい親子丼を食べる事が出来るのだろうと思います。