以前、何度かご紹介したことがあるのですが、禅には、「公案」というものがあります。
例えば、次のような文章です。
【達磨安心】
雪の降りしきる極寒の日、壁に向かい続ける達磨をひとりの男が訪ねてきた。名は神光。四書五経の万巻を読み尽くしていた。
彼は、膝まで積もった雪の中で問うた。
「心が不安でたまらないのです。先生、この苦悩を取り去って下さい」
「その不安でたまらない心というのを、ここに出してみろ。安心せしめてやる」
「・・・・・出そうとしても出せません。心にはかたちがないのです」
「それがわかれば安心したはずだ。かたちがないものに悩みがあるはずもない」
神光は、達磨から慧可という名前を与えられ弟子となり、やがて第2代の祖となった。
「無門関」第四十一則
禅の本―無と空の境地に遊ぶ悟りの世界 (NEW SIGHT MOOK Books Esoterica 3) p.189 達磨安心より
もし、興味があったら、次のページでも、いくつか紹介しているので見てみて下さい。
老師は言います。
「公案とは月を指し示す指と同じ、いくら指を凝視しても、月を見ようとしなければ月は見えない」
座禅で「月」に当たるものは「悟り」です。
つまり、老師の言葉を言い換えると次のようになります。
「公案の意味をいくら考えても、公案が指し示す先を見なければ、悟りのことは分からない」
では、老師は、公案をどのように受けとめるのでしょう?
それは、例えば、「ほほぉ~、うまいこと言いおる」といった感じだそうです。
公案の意味を理解しようとはしないのです。
公案の指し示すものが分かっているからこそ、できる反応だと思います。
さて、心の話題に変わります。
苦しい気持ちになったとき、多くの場合、私たちは、その原因を考えます。
そして、原因と思えることの見当がつけば、それを解決しようとします。
「それを解決すれば、心の苦しさが解消する」と考えるからです。
でも、ちょっと待って下さい。
実は、「苦しい気持ちの原因」にも、禅で用いる公案と似た性質があるのです。
「苦しい気持ちの原因」が指だとしたら、それが指すものは、いったい何なのでしょうか?
そんな話を紙芝居動画にしてみました。
少し長いですが、是非、ご覧下さい。
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