読むカウンセリング > トピックス > いじめについて(その2)

いじめについて(その2)

Pocket

『「いじめ」について(その1)』の続きです。

 

1).なぜ、親しみを持てない相手を排除しようとするのか?

これは、基本的には、「ストレスを感じたときに、それにどのように対応するのか」ということと同じように思います。

自分の心に意識が向けば、「自分はどうしてこんな事がイヤなのだろう!」「どうして、自分は我慢できないのだろう!」と自分を責める事になりがちです。

自分以外に意識が向けば、問題と認識する人を変えようとしたり、その人を排除しようとするしか、そのストレスに対処する方法はありません。

ここでは詳しくは説明しませんが、これは、神経症や恐怖症に陥る心理に似ています。

スポンサード リンク

そこには、『自分の考えや気持ちを強く主張するしか解決する手段は無かった』という事情があるのだろうと考えています。

このような心理のとき、周りの力関係によっては、「変なやつ」というレッテルを貼られて、いついじめられる側に変わってもおかしく無い状況であるかもしれません。

「仲間」という集団によって「強者」の立場が形成されていた場合、その役割の変化は、割合容易に生じるのかもしれません。

人間関係に影響が大きそうな体力饒舌などの個人の能力によって「強者」の立場を維持できる人がいじめを行っていた場合は、役割の変化は起き難いかも知れませんが、学校という枠を離れて社会に出たときに、自然に生じる孤独といういじめによって、行き詰ってしまうのかもしれません。

 

2).どうして、誰からも親しみをもたれないようになってしまうのか?

おかしなことに興味を持っていても、それを相手に伝え、また、相手の興味を受け入れたりするようなコミュニケーションが出来ている場合は、「変わったやつ」と呼ばれても、そこには親しみのニアンスが含まれている場合がほとんどだと思います。

しかし、自分の考えや気持ち表明することが無いと、対する人にとっては、何を考えているのか分からない「変わったやつ」になってしまい、親しみをもってもらうことは難しいことが多いような気がします。

そこには、『自分の主張を飲み込むしか解決する道は無かった』という事情があるのだろうと考えています。

何も表現できなくなってしまい、その結果、その心境が、おどおどした態度として、表現されてしまうのかもしれません。

また、何も表現できなくなるほど追い詰められていない場合でも、とりあえず、ニコニコしたり笑ったりするしか出来なくなってしまっていることもあるかもしれません。

しかし、いつも愛想良く笑っていても、「何を考えているのか分からないらない」とレッテルを貼られてしまってもおかしくない微妙なラインで、一人孤独に戦っているような状態に置かれているのかもしれません。

いじめる側にも、いじめられる側にも、「自分の気持ちを普通に表現しても、相手に伝わらなかった」という事情があったということでは、心に持つ傷は同じなのだろうと思います。

 


私は、「いじめをなくす」というスローガンに、違和感を感じています。

安直に「いじめをなくせ」ということは、「嫌いな人を好きになれ」とか「つらくてもつらいと感じるな」と言っているのと同じことだと思います。

でも、苦手な人は苦手だし、つらいときはつらいのです。

それを言わさないようにするということは、彼らがそうなってしまった原因の『素直な気持ちを受けとめてもらえなかった』という環境を強化するだけだと思うのです。

仮に、学校生活において、「いじめ」と分類される行為をリストアップし、それらの行為を禁止したとしても、それらは自分の気持ちを偽って行動させる事でしかありません。

たとえそれが実現しても、本音の無いところの猿芝居をしながら学生生活を送ることになるだろうと思います。

社会に出たあと、そんな猿芝居を続けられるわけはありません。

「親しみを感じない人」との人間関係は避けて通るわけにはいきません。

学校は、社会の縮図です。色々な人がいて、そのために、色々な人間関係の中での出来事が起こるのです。

ですから、学校生活は、社会に出てからの人間関係予行演習になると思います。

学校での生活では、本当に多くの人間関係にさらされ、様々な出来事を経験することが出来ます。

もしかしたら、社会に出てから経験するほとんどのパターンを経験することができるのかもしれません。

ですから、そこで起きる出来事を防止するのでは、予行演習にならないと思います。

どんなつらいことが起こっても、そこから心が救われる練習をするのが、学校生活の本当の意味なのかもしれないと思います。

そして、学校生活の予行演習が家庭です。

どんなつらいことが起こっても、そこから心が救われるという経験をすることが大切だと思うのです。

『心が救われる』、それは、一人きりで我慢したり、一人きりで頑張ることではないと思います。

 

【ヒント】

「おもちゃは買わない」と約束した自分の子供が、おもちゃ屋の前でダダをこねて泣いてしまったら、みなさんは、どうしますか?

子供におもちゃを買ってあげますか?

おもちゃを買ってあげずに我慢させますか?

たぶん、正しい対応はそのいずれでもないのだろうと思います。

みなさん、ここで一旦立ち止まって、「心が救われる」とはどういうことかを、ゆっくりと考えてみませんか?

※詳しいことは、「心のマニュアル」の説明を参考にしてみて下さい。(長くて、読み難いですが(^_^;))

現在の社会の論調のままに対策を進めていけば、学生のためのいじめ禁止法ができるかもしれません。

しかし、そのような対処では、新たな歪を子供社会に生じさせるかもしれませんし、たとえ子供のうちは上手く規制できたとしても、そこでひたすら我慢を強いられていた子供たちが社会に出たとき、大人社会のいじめがより深刻な問題になりそうな気がしてなりません。

挙句には、「大人の為のいじめ禁止法」などを作るようなことになってしまうかもしれませんし、実は、既に、もう、その兆候は現れていると感じます。

法律で、行動だけでなく、気持ちまでが規制される世の中になってしまうのではないかと、本当に心配です。

Pocket

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です