心を楽にするために振り返る子育て

23.「人生ゲーム」と「禅の話」と「子供の心」

読むカウンセリング【No.0023】 2012/02/13

昨年、ブログに書いてちょっと気に入っている文章がありますので、今回はそれを紹介させて頂きます。

「人生ゲーム」と「禅の話」と「子供の心」

子供の頃、「人生ゲーム」で遊んで、ものすごく楽しかった思い出があります。

多分、ほとんどの方が遊んだことがあるのではないでしょうか。

最近、その人生ゲームに、我が家の子供たちがはまっています。

特に、小学校1年の弟の方がはまっていて、毎日といっていいほど、「人生ゲームしよう!」とせがまれます。

ところがはじめると、ゲームの調子の良いときはいいのですが、自分の思うように進まないと

  • 職業決定のマスに止まれずに、フリーターになっちゃった!
  • 買いたい家が買えなかった!
  • せっかく買いたい家を買ったのに、火事で燃えてしまった!
  • 嵐で持ち物が吹き飛ばされた!
  • お宝がゲットできなかった!
  • せっかくゲットしたお宝を、他人にとられちゃった!

  ・・・ 他にも色々なイベントがテンコ盛りです ・・・

何か嫌な出来事のマスに止まるたびに、そんな感じに、大泣きします。

寝転がって手足をバタつかせたり、周りの誰かを叩いたりして、大泣きします。

悲しさや悔しさの心からの表現です。

逆に、良い出来事のときは、本当に心の底から喜びます。

喜びを全身で表します。

下の子供が嫌なマスに止まってしまい、大泣きしているときは、「そうかせっかくお宝ゲットできたのに、とられて悲しいね」といった感じに対応していました。

でも、良くないマスに止まる度に暴れられると、こっちもだんだんウンザリしてきて、「ゲームなんだからそんなに真剣にならなくてもいいんだよ」と言っていました。

その時、ある禅の本に書いてあった文章を思い出し、その意味が理解できたような気がしました。

児玉大将が一日入室にきた。

鄧州は児玉に「軍人の禅とは何か。」即今、3000の兵を使ってみよ。

それができなければ、勝ち目はないぞ」と問うた。

すると、児玉は「目の前に兵がいないのにどうやって使うことができますか」といった。

鄧州は「簡単ではないか。それができなければ戦はできない」と迫った。

さすがにムッとして「それなら、老師がやってみて下さい」というと、鄧州はいきなり児玉を押し倒し、「さあ、馬になれ」といって、彼の背中にまたがり、南天棒を振りかざし、大声で「全隊、進め」と尻に一鞭あてた。

児玉は鄧州を乗せたまま前へ進み、「わかりました、今日初めて禅機を見ました」と、喜んだという。

禅の本―無と空の境地に遊ぶ悟りの世界 学習研究社 (1993/04)
73ページ 上段10行目より引用

これだけでは、何が言いたいのか分からないと思うので、ヒントを出します。


■ヒント(1)■

人生ゲームで使うお金と普段の生活で使うお金、どっちが本物のお金?

■ヒント(2)■

人生ゲームって本当にただのゲームなの?だとしたら、それはどうして?


ヒントを出しても、ちょっと分かりにくいかもしれませんね。。。(汗)

子供の「人生ゲーム」への取り組みからも分かるように、子供の頃は出合うこと全てが、彼らにとってはとても大事なことです。

ですから、それら全てに対して、一生懸命に真剣勝負をしています。

「子供の心は純粋だ」ということもできます。

そんな子供が、成長と共に、社会が「価値がある」とするものを「本物」として取り入れ、社会が「価値がない」とするものを「いらないもの」や「ゲーム」として切り捨てていきます。「打算的になっていく」とも言えます。

ちなみに、私も子供の頃は「ものすごく楽しい!」と思っていた人生ゲームなのですが、何十年ぶりかにやってみると、懐かしさを感じるものの、あの頃に比べたら楽しさは雲泥の差です。

(いちいち泣き叫ぶ子供の対応もしなければなりませんしね(苦笑))

さて、ここで問題です。


■問題■

親、上の子、下の子、この中で一番楽しんでいるのは誰でしょう?


答えは、たぶん下の子だと思います。

だから、あんなに何回も何回もゲームの中で嫌な出来事のコマに止まって大泣きをしても、今日も明日も明後日も、また、「人生ゲームやろう!」と誘ってくるのです。

そんな風に一番楽しんでいる人に対して、「これはゲームなんだから、そんなに真剣にならなくてもいいんだよ」と言うのは、どうでしょう?

ちょっと違う気がしませんか?

何かを感じていただければと思います。

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