罪と罰(3) 性善説と性悪説について

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当初の予定とは異なるのですが、「罪と罰(2)」に関連して、最近自分なりに理解したことを書いてみたいと思います。

ここに書くことは、「罪と罰(2)」と同様、ニュースなどからの印象だけからの文章ですから、参考程度にお読み頂ければと思います。

現代においては、凶悪犯罪に対する考え方は、人は『性善の人』と『性悪の人』の2つに分類されるという考え方が前提にあるように感じています。

そして、重罪には重罰という考え方の他に、『性悪の人』を見つけ出し社会から排除するという雰囲気も含まれているような気がします。

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『性善の人』と『性悪の人』の切り分けの判断材料のひとつに、『計画的』か『発作的』かという基準を使っているように感じています。

また、『性善の人』を、極刑から救済するための考え方として取り入れられたのが、『責任能力の有無』という考え方のもともとの目的だったのではないかと想像してみました。

すると、現在の極刑に関わる考え方の筋道が理解できたような気がしました。

人を『性善の人』と『性悪の人』に分けられるという考え方が正しいか誤っているのかについては、私はよく分からないのでここでは何も書きません。

ただ、仮に、『性善の人』と『性悪の人』に分けられるという考え方が正しいとした時、その区別を計画的犯行か発作的犯行かで切り分けるのは短絡的過ぎるような気がしています。

それは、発作的と計画的の差異が発生する要因として、次のようなことが言える場合があるからです。

一概には言えないのですが、発作的にしろ計画的にしろ、両者には『誰にも気持ちを聴いてもらえずに、我慢を溜め込む』という共通の傾向性があるように思います。

そして、我慢を溜め込んでいくうちに、
・我慢が限界を超えてしまった時
・相手に我慢している内容を言うことが出来た時
発作的になりやすいところがあり、

我慢が限界に達しているのに
・それでも、相手を目の前にして我慢できた時
・それでも、相手を目の前にして我慢していることを言えない時
計画的になりやすいところがある

という面もあると思います。

もちろん、犯罪に至らない人はたくさんいますし、全てがそうと言えるわけではないかもしれませんが、そういう部分があるのは確かなことだろうと思います。

いずれにしても、溜め込む前の早い時期に、誰かに気持ちを聴いてもらうことはとても大切だと思います。
【参考】 : そうかそうかムーブメント

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