心を楽にするために振り返る子育て

「理性があるから人間らしい」とよく言いますが・・・(長文です)

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以前、どこかに「深く考えすぎるから苦しくなる」と書いたら、

  • 深く考えずに本能に任せて行動したら、世の中は犯罪だらけになる

と反論されたことがありました。

(私の言葉も、相手の言葉も「うろ覚え」です。)

それから頭のどこかで

  • 『本能』  『理性』っていったい何なのだろう?

と引っかかっていました。

引っかかっていただけで、別に考えることはなかったのですが(汗)、最近、突然、その答えみたいなことが浮かんだので、ご紹介します。

私は、そうだったのですが、『理性』 反対 『本能』 だと漠然と思っていました。

でも、それは間違いだったようなのです。

なぜかというと、基本的には『本能』で行動していると人間が考えている野性の動物たちは、同じ種(しゅ)同士で殺し合いなどせず平和に暮らしています

発情期には、メスを巡って、オス同士が戦うこともあるようですが、殺し合ったりはしません。

本やテレビから仕入れた情報ですが、例えば・・・

犬系の動物は、戦意が無ければ相手に腹を見せ、腹を見せられた方は相手を襲いません。

猿は、歯を見せれば襲いかかってくるけど、情けない表情を見せると、相手に背を向けその場から立ち去って行くようです。

何の動物かは忘れましたが、強い個体が相手の首を噛もうとしたときに、逃げれば襲うけど逃げなければ襲わないという 動物もいたと思います。

また、動物全般的に、発情したオスはメスにちょっかいを出そうとしますが、メスが拒むと、もうちょっかいは出さなくなります。

これらから、

  • 本能とは、何らかの摩擦が生じても、適当なところで収まるような仕組み

と思えませんか?

話は変わります。

以前、座禅に通っていたときに、老師の講話の中で、

  • 悟りとは、意味の世界から解放されて、意味にとらわれる前の心に戻ること

と説明されたことがありました。

それに対して、坐禅会に参加していた方が

  • では、赤ちゃんは悟っているのですか?

と質問ました。

それに対して老師は

  • 赤ちゃんは言葉が分からないから悟っていない

と返しました。

確か「趙州狗子(じょうしゅうくす)」という公案の中で

  • 弟子の「犬に仏性はあるか?」という問に、師は「無い」と答えた

と書かれていますが、それも同じようなことを指していると思います。

話は、また、少し変わります。

座禅の話を書いていて思い出したことを書きます。

昔、ボランティアで知り合った人が話していたことです。

確か、精神保険福祉士の資格を取るために、施設研修に行ったときの話をしてくれました。

(正確に覚えていないので、その施設の種類や、施設で生活していらっしゃった方々の症状名・状態名は書かないようにします。)

彼らは、食事をした後、

  • 食器を水洗いする人 -> 洗剤で洗う人 -> 水ですすぐ人 -> フキンで拭く人

というように担当を分けて、流れ作業的に食器を片付けていた。

その作業中、綺麗にすすいだ食器に、

「洗剤で洗う係の人」が、洗剤の泡を、何度も何度も飛ばしていた。

すすいだ食器に洗剤の泡がついたのを見た「水ですすぐ係の人」は、その食器をとって、

何も文句を言わずに水ですすいでいた。

というよりは、「普通の様子で」水ですすいでいたという方が合っている。

洗剤の泡がつくたびに、何度も何度も、普通の様子で水ですすいでいた。

 

「私だったら、そんなこと考えられない!「絶対に、もう泡を飛ばさないで!」って怒ってしまう。

でも、彼らは違うの・・、泡を飛ばした人に苛つくことなく、何度も水ですすぐの・・・。

私、それを見て思ったわ、

彼らの心はとても澄んでいるって!

そう熱く語っていました。

以前、スマップの草彅剛さんと矢田亜希子さんが主演した「僕の歩く道」ってドラマがありましたが、その中で、草彅さんが演じる「末期ガンにかかった主人公」が、同じような行動をするシーンが描かれていました。

話は少しだけ戻ります。

施設で暮らす方々は、悟っているのでしょうか?

彼らは、難しい解釈はできないそうですが、話はできるそうです。

ですから、「言葉の意味」を知っているので、赤ちゃんと同じ状態ではありません。

ということは、彼らは、『悟った』と呼ばれている状態にあるのだろうと思うのです。

話は戻ります。

知人の話を聞いていると施設で生活している人たちは、一般常識的なことは理解し難いということらしいのですが、客観的に、その行動だけを見れば、

  • 普通の人以上に理性的で、普通の人以上に優しい

と感じました。

それって、理性 によるのでしょうか?

それとも、本能 によるのでしょうか?

次の図は、動物の本能的な行動を参考に、私がこれまでに理解した心のことを踏まえて、本能 と 理性 の関係を表したものです

簡単に説明すると、解消できずに慢性化させてしまった心の苦しさは、その人を『欲』執着させ、その結果、『欲望』が生まれます。

そして、執着した心は、人を傷つけます。(自分も他人も・・・)

そのようにして、何かに執着してしまった人の行動を周りの人の目監視し、また、その行動の問題を指摘し改心することを求めます

その一部が法律として明文化され、警察などの公的機関が取り締まっているのが今の社会です。

そんな監視される雰囲気が社会に広まったり、法律として周知されたりすると、人は、「社会的な善悪」と、自分の行動照らし合わせるようになります。

  •  これから行動しようとしていること
  • 既に行動してしまったこと

この内、これからやろうとしていることに対する自分の中での検閲、つまり、

  • 予め、「自分の欲求」「社会的な善悪」とを照らし合わせるときの心の中の葛藤

理性と呼んでいると解釈できます。

つまり、理性とは、欲望の単なる裏返しでしかないようなのです。

「苦しい気持ちを、その都度、楽な気持ちに回復させること」をできる人が増えるにつれて、何かに執着する人減っていくと考えています。

そして、欲望に支配される人減るに連れて、理性法律など発動させなくても、本能的な優しさによって、より良い社会へと自然に変化していくように思います。

子育てのたった一つのポイント お父ちゃんスイッチの「だ」 ・・・ 「抱っこして」 ( ブログ 子育てと解釈 )でも、

  • 「泣いている子供と接するとき、考えるよりも、本能のスイッチを活用してみるとよい」

といったことを書きましたが、それも今回の投稿と共通することだと思います。

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