頂いたコメントをきっかけにして、「自分が無い」というについて、一般論として少し考えてみたいと思います。
「自分が無い」という事について、コメントの中にも書いてくださっていましたが、
■自分が出せない(自分の意見が言えない)
ということが、まず一つ挙げられると思います。
そのような状態だと、他の人はその人の気持ちに触れることが出来ないので、「その人の気持ちが分からない」と感じ、そして、そのことを「自分が無い」と表現することがあるのではないかと思います。
そして、人から同じように「あなた、自分が無いわね」というような事を何回か言われると、どうしても、「自分がないのかもしれない・・・」と錯覚させられてしまうこともあるかもしれないと思います。
この場合、『自分がある』と自分がわかっているから安心かというと、他の人から「あなたは自分が無い」と言われるのは良い気持ちがしないと思いますし、また、言いたいことが言えない辛さも、やっぱり感じるだろうと思います。
前置きがとても長くなってしまいましたが、もう一つ考えたことが、
■自分の気持ちが見えなくなっている
という場合があるのかもしれないと思いました。
右を向けば、左側は見え難くなり、左を向けば、右側は見え難くなります。
これと同じように、意識の方向が相手の方を向けば、自分の気持ちが見え難くなり、自分の方を向けば、相手の気持ちが見え難くなるということがあるのかもしれません。
つまり、「自分が無い」の意味は、相手のことを大切にしようとする傾向が強いということかもしれないと思います。
「相手が気になる」 という言葉で表現される場合もあるかもしれません。
相手が気になると、どうしても、自分の気持ちよりも、相手の気持ちを想像する時間が多くなるので、「一 生懸命に想像した相手の気持ち」を話したり、行動や言葉などもその相手に似てきてしまうのは自然な事なのかもしれないと思います。
その状況で、「自分を感じたい」と思う場合は、その時々に、「今、私が気になっている相手は誰なのだろう?」と考えてみようとすると、その相手のことを一生懸命に考えている自分自身と出会うことが出来るのではないかと思います。
そして、その出会いは、相手に向いた意識が、左でも右でもない丁度中間(左も右も見ることの出来る位置)に、移動し始めるきっかけになるかもしれないと思います。
あくまでも、一般論として考えてみましたが、少しでも参考になる部分があればと思います。
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