心を楽にするために振り返る子育て

世界を良くする画期的な考え方

これからの社会

人は、元来、わがままな存在です。

「他人を思いやることが大切」と口で言ったり、実際に、心でそう信じていたとしても、いざとなると、やっぱり、「一番優先されるのは自分自身」ということは否定できないと思います。

今回の投稿は、それが悪いことだと主張しようとしているのではありません。

自己犠牲的な行動にこだわるよりも、自分を優先して行動するのは、ごく自然なことだと思っています。

しかし、今のままにしていたのでは、

  • 自分の利益のために「自分の考えを押し通す力が強い人」、「自分の考えを実現する力が強い人」の暮らしだけが豊かになる

という社会の傾向が、ますます強くなるような気がします。

また、個々の利益を追求する活動の影響は、人間社会にとどまらず、自然を破壊し、かけがいのない地球を生き物が住めない状態にしてしまう恐れさえあると思います。

このような流れに、どうしたら歯止めをかけられるのでしょう?

そんなことを、少し考えてみたいと思います。

私たちは、今、生きています。

そして、生きている自分たちが認識できる世界だけが、世界の全てだと信じています。

簡単に書くと、「あの世なんて存在しない」と考えているということです。

だから、私たちは、「人は、死んだら無になる」という考えを根底にして、世の中の様々なことを理解しています。

「あの世」のこと、霊的なこと、スピリチュアル系のことに対しては、「そんなものは、非科学だ!」と否定する人は多いと思います。

しかし、これって、とても変なことなんです。

「無」を基本と考えているとしたら、「有」の方が異常だと言えるはずだからです。

つまり、この世が存在することや、この世に自分が存在することこそが、非科学的なことと認識されるべきで、 逆に、あの世が存在すると考えることは、そんなに非科学的なことではないということです。

とはいえ、私のように霊能力と呼ばれるものを持たない人たちは、「あの世」を肯定することは、難しいと思います。

しかし、完全否定することもできないと思うのです。

「輪廻転生」という概念があります。

たぶん、仏教の言葉だと思うのですが、「人は死んでも生まれ変わる」という考え方です。

世界には、その考えを前提に暮らしている人がいるといいます。

チベット仏教では、その頂点に位置するダライラマが死んだとき、僧侶たちは町中をかけずり回って、その生まれ変わりと認められる人を探し出し、ダライラマとして迎え入れるのだそうです

私は「輪廻転生」を堅く信じている訳ではないのですが、「あの世」と同様に、「輪廻転生」が実際に起こっている可能性は否定しきれないと考えています。

さて、ここからが、本論です。

多くの人は、「人生は一回限りだ」と考え、「一回限りの人生だから、悔いのないように生きよう」と思っていることでしょう。

この「人生は一回限りだ」という考えと、現代社会の色々な価値観が合わさった結果、「経済的・社会的な成功を修めたい」という願望が生まれ、個人の利益が優先されるようになり、「競争社会」と呼ばれる状態に陥ってしまうのです。

この「人生は一回限りだ」という考えを、その真偽の追求は棚上げにして、「輪廻転生は起こっている」という考えで置き換えてしまうと、おもしろいことが起こります。

「自分は死んでも生まれ変わる」

ただし、この仮定には推定される前提があります。

「次は、どのような状況に生まれ、どのような状況で生きることになるのかの保証はない」ということです。

ですから、「今の自分のためだけのことを考えた行動は、来世の自分のためになるとは限らない」ということになります。

もっというと、「よく考えて行動しなければ、来世の自分の首を絞めることになり兼ねない」ということです。

どうです?

「来世も含めた自分」のためになることを考えることが、自動的に、他人のためになることを考えることになるのです。

「輪廻転生」という概念は、もしかしたら、「全ての人や自然に優しい社会」を実現するために、仏教が生み出した方便だという可能性もあります。

しかし、実際に「輪廻転生」が起きている可能性を完全に否定できない以上、私たちは、万が一(輪廻転生が現実に起こっている場合)に備えて、来世のことも考えて現世を生きておいた方が良さそうな気がしませんか?

きっと、 社会の価値観、人にとって大切なもの・大切なことは、180度転換してしまうと思います。

コメント

タイトルとURLをコピーしました